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2010.02.14

機動戦士ガンダムSEED & SDESTINy レビュー総論 「SDESTINy篇」

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 TVアニメ「機動戦士ガンダムSDESTINy シードデスティニー」(以下SDESTINy)。たとえ些細な契機だろうとも、このタイトルを何らかのカタチで見知った人は多いだろう。
 本作は2003年9月までに全50話が放送された「機動戦士ガンダムSEED」(以下SEED)の続篇であり、生みの親であり初代作品の監督 富野由悠季(とみのよしゆき)氏以外では初となる2年以上続いてTVシリーズ化されるという快挙を成し遂げた作品である。
 今回 本作品のレビューをするにあたり、筆者はふと気付いた事があった。それは、この作品を語る為にはSEEDを強く意識する必要があるという事だった。但し「続きものだから当然じゃん」という意味ではない。その心はSDESTINyとSEEDは三位一体ならぬ『二位一体』(表裏一体)の構造をしており、「ファーストガンダムの続き→Ζ(ゼータ)ガンダム」のような造り方とは似て非なる物だと確信したからだ。
 「SEEDとSDESTINyは前50話と後50話の転回をもって結実する合作物語」。この事を心に留めつつ、前作のレビュー総論「SEED篇」も一読してもらった後で読み進めていってもらえる事を希う。(April 9, 2010 付)

 【劇中時間軸的にも制作日数的にも早すぎる続篇、その心は二面性の表現】

 今回のSDESTINyはSEED終了後から約1年半が経過した時代を舞台に、『何故戦争が起こるのか、どうして世界から紛争は無くならないのか』をテーマに語られている。そして、新主人公シン・アスカを中心に据えながらも、前作の主役的存在であったアスラン・ザラやキラ・ヤマトなど多くの主要キャラクターを再登場させ、主体者を目まぐるしく変える表現方法を取っている。そのため、初めて視聴した人達やハマり度が低いファンからすると、誰が主人公なのか分からない、感情移入する対象が選びにくい、といった印象を抱いてしまった事だろう。
 また、オープニングフィルムやアクションシーンに前作そっくりな作画(動画)を盛り込み、似たような構図どころかまるっきりそのままで機体と人物を入れ替えただけと言える造りをし、更には宇宙世紀(ユニバーサルセンチュリー)以外では御法度として慣例化していた「ザク、グフ、ドム」の名を冠するMSの登場、仮面の男という要素を決定付けたシャア・アズナブルを担当した名声優池田秀一氏の出演、ランバ・ラルの名シーンを真似たセリフなど、ありとあらゆる要素をオマージュ的に取り入れていったのである。
 何故こうまでしてあからさまな二番煎じ的な造り方をしたのだろうか?それは冒頭で綴った通り、Ζガンダムのような位置付けとは異り、SEEDという名のファーストガンダムのアンチテーゼを狙っていたから(ファンサービスでもあるが)に他ならない。前作の主人公キラ・ヤマトが戦った理由とラストシーンを観れば、ある意味でキラの信念は正しい事だったと思えるだろう。然しSDESTINyはここに最大の問題提議を付加したのである。それが『シン・アスカとその家族』の存在であった。

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 【シン・アスカとキラ・ヤマト、二人の対比に隠されたテーマ】

 前作の物語が終盤に差し掛かった頃、自分に出来る事と望む事に「答え」を見い出したキラは地球連合軍を離反し、オーブ解放戦争でその連合と戦う事となる。それは想いを同じくする仲間の為、理念を支持したオーブ連合首長国を一方的な侵略から守る為だった。キラはこの頃から「不殺」を信念として戦うようになっていたのだが、その戦乱の中、オーブで暮らしていたシン・アスカの家族の命がどこからともなく飛んできた流れ弾によって掻き消されてしまう。「全ての人人の平和な未来のために戦う」という意志でとったキラ達の行動は、皮肉にもそのための戦いに巻き込まれた見ず知らずの人達に更なる悲劇を与えていた――という意図である。
 ここには「戦争の理不尽さ」や「憎しみの連鎖が生まれる状況」というテーマの他にも隠された提示がある。それは、キラ・ヤマトに共感し肯定した者(劇中、視聴者問わず)への「それは正しいのか」という問い掛けだ。何故ならば、自己犠牲すら厭わないという姿勢での行いではなく、結局は殺している姿も確りと描いていたからだ(前作PHASE-49のアガメムノン級両断、FINAL-PHASEのZGMF-X13A決闘)。

 これら一連の描写が示しているのは、キラは争いを好まないヒューマニストではあるがまだ未成熟であり、不殺主義で進んでいるとはいえ仲間や理想を守るためには「過程での排除は避けられない」とも思っているという一面だろう。では、その「過程での排除」にされてしまった者はどうなるのか――。それがシン登場に対する監督の真意 *1 であり、前作最終話で隠す事なく描いた「滅びを望んだクルーゼとの矛盾の決着」への『時空(語り部)を超えたアンサー』でもあるのだろう。そのクルーゼとシンが決定的に違うのは、同じ憎悪でも「家族の命を奪った敵を討つ=二度とそんな悲劇が起こらない世界にする」という「平和主義」な点である。然し、守られるべき人人を傷つける者を倒すというシンの「現実的平和主義」と、もう誰もそんな争いをしてはいけないんだというキラの「理想的平和主義」は『似て非なる』もの――。此処にSDESTINy開始時の最大のテーマがある。故に、ザフトと連合の「不可避の衝突」であっても「喧嘩両成敗」で撃ってくるキラ達の存在が、シンや当事者からは「割り込んでくる邪魔者」としか写らないのである。

 一方、本作ではそんなシンとキラを代弁者とした「現実と理想の対立」とは別に、もう一つ重大なテーマがある。それは、前作から引き継がれる「遺伝子操作の有無によって分かたれた人種」に今一度視点を定めての、後述する『戦争や紛争が起こるメカニズム』の要素である。

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 【ジオン独立戦争と同一視してはならない、C.E(コズミック・イラ)世界の人種差別紛争】

 今回のSDESTINy及びSEEDを含めた「宇宙世紀(トミノ監督)以外のガンダム」について、多くのファースト世代は否定的な感想を持っている。これはジャンルを問わず「続きモノ」に必ず起こる現象であり、総じて初作が「神聖視」される為だ。それは生みの親である富野由悠季氏が語った「ガンダムは縮小再生産を繰り返す商売になった」という言葉にも表れており、時代やキャラクターを変えてしまえば、戦争モノというジャンルを利用して幾らでも「焼き直し」が出来ると踏んだ後世のアニメ制作スタッフとスポンサー企業の体質も原因だった。
 然し本作シリーズを否定的に論じていたファースト世代の大半は、ある一定の誤解を持っていた。それこそが「唯一無二の正しい戦争論=ファーストガンダム」という思い込みである。一言で「戦争」と言ってもその種類は様様であり、時代背景や国家情勢の違いで大義が変わるもの。ファーストの「独立戦争」とSEED世界の「人種差別紛争」では、そのバランス感(或いは空気感、比重)が目に見えない部分で大きく異っているという事に、ファースト世代の過半数が盲目的だった。
 たとえばSEEDの作品内で特定のキャラが極悪人扱い、または狂人扱いされたとする。そうすると一部のファースト世代は「敵側も同じ人間。家族があり、理念があり、大義がある」と反論する。ここでのポイントは、戦争を描くにあたって「勧善懲悪は駄目」という事ではなく、視聴者側の、味方も敵も常識的かつ平等に描くべきという「観念的な考え方」だ。この事は多くのガンダムファンが持っている固定観念であり、ある意味で「初代ガンダムという名の教訓」に洗脳されてしまっている思考でもある。

 「バカ言うな。戦争に“偏った悪”という概念は存在しないんだよ」とお怒りになるかもしれない。然し一概にそうとは言えず、「Ζガンダム」ではパプテマス・シロッコ、「ガンダムF91」ではカロッゾ・ロナ、「∀GUNDAM」ではギム・ギンガナムなどがそれぞれ「生きていてはいけない悪者」として倒されており、富野由悠季監督の作品でも存在していた事実は、特にファースト世代の「盲信者」には肝に銘じてもらいたい。
 結局のところは、自衛だとして最初に撃った者、自国こそが正義だと唱える為政者、報復を支持し決着を望んだ民衆。どれもが「元凶」と呼べるし、そうではないとも言えるのだ。だからこそ、前作で訴えた戦争悪が『暴力』だったのは疑いようがない。正規軍の作戦行動であろうとゲリラの無差別テロであろうと、不可抗力であろうと作為であろうと、自由のためでも正義のためでも、拳銃1発も核ミサイル1発も、全ての「実力行使そのもの」が悲劇を生み出し、殺傷→報復という怨嗟を続けていく。
 その解決策として「和解」という究極の正論を打ち出していたのだが、前作と同様にSDESTINy(C.E.73年)でもその手段である「話し合い」が通用しない時代考証になっている。その理由には「前人〔類〕未到なまでに蔓延した差別感」があるのだが、二つある理由の一つに、今回のストーリーテラー的ポジションになったプラント(ザフト)にとっての交渉相手である地球連合の上層部を支配する軍需産業複合体が登場する為、兵器ビジネスを継続させんがために「話を聞かない」からだ。

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 本作シリーズの世界設定では石油資源は涸渇し、環境汚染は深刻化、失業率低下から起こる暴動デモなどの問題が全世界的に末期を迎え第三次世界大戦が勃発、それから約1世紀が過ぎた時代となっている。現代のようなオイルマネー争奪戦争が不可能となり、それに替わる新たな“理由”が必要となった。
 そうしてロゴス達のような富裕層は宇宙産業=紛争化に目をつけ、その結果生み出された宇宙時代の兵器、とりわけ「モビルスーツ」をオイルの代替品とした。彼らにとって休戦や停戦は不利益以外の何物でもなく、コーディネイターとナチュラルには何としても「いがみ合って」いてもらわなければならなかった。こうした背景が事実としてあった場合、戦争を避けるための提案や要求をつっぱね、相互理解を求めても讒言を繰り返すだけで何一つ譲歩しない相手と平和を望んでも、それは単なる理想で終わってしまうだろう。理想を実現させるには享受しない相手を「排除」するしかない。あまりにも迂闊で恐ろしい考え方だが、現実の世界で起こっている紛争と何も違わないのは、あまりにも残酷な事実。
 シンとアスランは連合軍の在り方を悪と判断し排除しようとした。キラとラクスは戦争に関る全ての人の意識を正そうとした。ジブリールは自らが頂点となって新世界を牛耳ろうとした。これらは最悪のルートを辿る「思想の対立」となり、YesかNoかの判断を迫られる世界へと変貌してゆく。

 そうしてアークエンジェル一向の声が形骸化した頃、驚くべき思想が世界に向けて宣言される。本作を語る上で理解しようと努力する事は避けられない「デスティニープラン」、そして陰の主人公であったギルバート・デュランダルが求めた“自分が本当に望んだ運命”の実現である。

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 【デスティニープランによって暗喩されていた“調整者(コーディネイター)”の存在意義】

 ロゴス達の存在が明かされた後、人人の報復行為にブレーキがかかる事などなかった。暴徒と化した民衆が暴挙を是としてきた者達を排除したのだ。‥‥然し本作は、それで世界は平和になりました――とはならなかった。そこで新たに登場した舞台装置が、物語の終盤でデュランダルが狙いすましたかのように提唱・宣言した「デスティニープラン」(以下 DP)という社会監理政策である。
 このフィクション・アプローチの最も興味深いところであり特筆大書に値したのが、『遺伝子操作』という本作群の抜本的テーマと、『民族紛争』の根底にあるヒトの本能のようなモノを融合させて、一つの救済案を“本気で実現させようと行動した(させた)ダイナミズム”にある。極端に説明するとすれば、「明日からアナタはトイレ掃除の正社員になってもらいます。但し、賃金・医療・保険など、今後アナタの人生で不安要素となる可能性は一切無い事を保障します。その上での終身雇用です」と通達されるのだ。当然、アナタ(および宣言されたAさん)は不服を感じ、反論を頭の中で考え始めるだろう。‥‥然し一部の者(仮にBさんとする)は、こんな風に思うかもしれない。「営業なんて自分には心底合わないし、辞めようかと思っていた会社だったからなぁ‥‥。家でもトイレ掃除なんてやってるし、それで娘の学費や老後の生活まで保障されるんなら願ったり叶ったりじゃないか」と。かなり一方的な例えになったが、AさんよりもBさんが多ければ他人同士いがみ合う理由が無いため「対立」が起こらず、結果的に平和な世界が実現されると謳うのだ。
 人はそれぞれが違うもの。――であれば、その証明である「DNA」を基準とし徹底的に「適材適所」へ割り振ることで不確定要素を極限まで減らした社会になれば、ヒトは争う事無く暮らしていける。DPはそう語るのである。
 様様な者達の暗躍によって人種の差別観が究極的なところまで進んでしまったC.E世界で、ナチュラルとコーディネイターの溝を埋める超現実的方法が示された時。人人に提示された未来が何だったのかは、アナタ自身の目で本篇にて確認してほしい。

 加えて、シンにおける「SEEDのファクター」発現シーンで多かった「死にたくないってだけの自己中理由かよ(笑)」や、キラ達を指して「具体的な対案を示さないくせに反対(妨害)ばかりしているだけ」との感想に関しても、DPという問題提議を踏まえれば、短絡的な「誰かの為、平和の為になんて嘘。結局は利己主義なだけだろ」という理解は浅はかだと筆者は考える。何故なら本作には『昨今増えている指示待ち症候群の子供達や引きこもりの青年達に、それでいいのかを問いたかった』というテーマも含まれているからだ。
 ならば“本心から利他”を望み、話を聞いてお互いを認め合う事が「未来へ至る道」であると同時に、もう一つの「話を聞かない」存在である『対話はしても本心では聞く気がない』相手とは闘い、その悪行を断つ事も「未来を築く道」なのではないか。

 “いつか、なんて日があるんですか?挑まない者のカレンダーに”。福田監督自身の過去作にて語らせた台詞であるが、これはラクスの“まず決める。そしてやり通す。それが何かを成すための、唯一の方法ですわ”という台詞にもつながる。
 「時期がまずいから」「説得力に欠けるから」「人よりも心が弱いから」「運命だから」といって免罪符にし、闘う事、失敗する事を一切せずに楽な方へ避けているだけになってはいまいか――。

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 【シン・アスカと“モビルスーツガンダム”。その関係に秘められた意味】

 まとめに入る前に本作の主人公の浄化について述べておきたい。多くの視聴者(特に“アンチ本作の男性”層)の感想中、筆者は「FINAL-PHASE 最後の力」(FINAL PLUS、自由の代償含む)でのシーンに関するモノに注目した。それはアスラン駆る∞ジャスティスとの決着に至るカット内で、妹のマユ、ステラ・ルーシェ、インパルスの「幻覚」を見るシーンだ。結論から言うとこれは「幻覚そのもの」とは異る。解説する前に「PHASE-32 ステラ」まで遡ってみよう。ここでも同じ様なシーンがあったのを憶えておられるだろうか。デストロイに迫るフリーダムを、ステラが見た時である。そこで考えてほしいのは、何故ステラではないシンが似たものを見たのかという事だ。怒りの感情が激しいキャラクターであるが故、前述したタイプの視聴者は自然と「精神が高ぶって錯乱するガキだからだろ?」という様な結論を出してしまったのだろうが、それは違うのだ。

 答えは「PHASE-01 怒れる瞳」のコールドオープンにある。家族を殺された直後のシンは、それが何者によって放たれた凶弾なのか分からないまま空を凝視した。上空を舞う数機の兵器。それらは全て――。加えて、公式ウェブページの「STORY」で強調されている「モビルスーツガンダム」という表現文。‥‥読みが鋭い方ならもうお分かりだろう。シンにとってオノゴロ島での出来事は「怨敵の出現」になったと同時に、「ガンダムというイメージ」が最大の『強迫観念』としても焼き付いてしまったのである。
 怨みを抱いてザフトに入隊し、その“素質”をデュランダルに見出されて最新鋭MS「ガンダム」の専属パイロットに選ばれたシン。衝動の名を冠する機体での復讐戦闘に感傷は雑じらない。デスティニーを任されて喜びもした。‥‥然し、愛し愛された家族を奪った強大な恐怖=ガンダムという心象は消えないままなのだ。
 だからこそ彼は、護らなきゃいけない(でも護れなかった)対象と抗い難い恐怖を同時に重ね見てしまったのである。フリーダムとの一騎討ちもそうだ。本懐を遂げた歓喜の笑いの筈なのに、眸を潤ませる複雑な表情だったシン。タイトルの「悪夢」とは、二人の橋渡し的存在であるアスランの心情を指していた命名であると同時に、シンが抱える「ガンダムへの強い恐れ」もかけていたのだろう。その瞬間の彼は泣き叫んだステラであり、怯え続けたフレイでもある。何という皮肉であろう。それはまるで、シンにとってのブロックワードが「ガンダム」であったかのように。戦禍によって大きな心的外傷(トラウマ)を負ってしまったそんな少年の運命(さだめ)を、誰が責められようか。誰が罵れようか。

 だが、半壊したデスティニーと共に月面へと堕ちていく瞬間、うっすらと泪を滲ませながら目を閉じているシンが、運命の名を冠する機体のコックピットから「分離」する。これは過去からの解放のイメージにも重なる。「未来まで殺す気かッ!」と叫んだアスラン。その想いの真意が、夕暮れの海上で諭された時とは違い、ようやくシンの胸に素直に響く。
 そして、もう一人のマユであり、思い出というものを最期まで得られなかったステラは言う。「昨日を貰ったの。だからどっちだか分かる。嬉しいの。だからシンとはまた明日」と。最適化の影響で記憶までも失ってしまう生体兵器だった彼女にとって、過去と未来を意識するには『現在を絶つ』という悲しい道しかなかった。それでも生きていた彼女と記憶の中の妹を重ね合わせ、今度こそ護ってみせると固く誓ったのに、その命を再び目の前で奪われたベルリンで抱いた復讐心は確かに本心だったが、ステラ自身はフリーダムを憎む事なくシンに想いを伝え、本来の自分を取り戻す自由を得て往ったのだ。
 復讐とは単なる快楽制裁ではなく、たとえ達成できなくとも「過去の因縁との決着をつけるためにある」というのが最も適確だと思うので、私自身は復讐肯定派に括られるかもしれない。然しだ。問題なのは先述してきた「正しく他人を理解することの難しさ」と同様に、その復讐対象や行動理由を「見誤って晴らそうとする過ち」なのかどうかなのだ。

 シンの過ちを同じように体験してきたアスランの「戦争を無くす――だからロゴスを討つ――だからオーブを討つ」という問い掛けは、正にその事を伝えんがためのもの。目を覚ますとルナマリアがいた。遠くの火柱の先には故郷だったオーブがある。シンはルナという母性に縋りつき、声を上げて泣いた。後述するエピローグにおいて、シンはオノゴロ島に対する想いを吐露する。宿命は変えられないが、運命は変えることが出来る。あの時から時間が止まってしまった彼はやっと、ガンダムを『ガンダムという名の機械』に、後悔という名の過去を『昨日』に置き換える事が出来たのである。
 シンを指して「降格につぐ降格で単なる背景になった空気主人公」「昨日とか明日とか抽象的すぎて脚本家自身が混乱してりゃ世話ない」などと貶す(評論する)視聴者は本当に多かった。嘘だと思うならGoogleでそれらしい単語を検索してみるといい。そういった一部の視聴者が理解している本作像は、福田監督が世相と共に込めた「戦争以外のテーマ」に気付いてもいないのである。筆者も本レビューを書くにあたって、他者の視点との差異を学ぼうと様様なサイトを見て回った時があったが、これまで述べてきたような「発見に至っていた視聴者」 *4 は五指にも満たなかった。‥‥満たなかったのである。これはもう、嘆かわしいといったレベルではなく「戦慄」であった。

 ガンダムというブランド、ボーイズラブや妹属性などという時事ネタ、スタッフの一言一句の裏(比喩)を考えもしない先入観――。そういったものに勝手に囚われ、掌で踊らされている限り、アナタはいつまでたってもオールドタイプであり、ミーア・キャンベルなのかもしれない。

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 【ファースト世代とシード世代のギャップ】

 いわゆるファースト世代と呼ばれるガンダム創生期のファンは現在30〜40代となり、ある意味ではガンダムから巣立っていく筈の大人達だった。然しアニメ離れが出来ずに二次元だけの趣味世界へ進もうとしていく同嗜好の若者達と、その風潮に未来の利益を視て傾倒していった日本の映像産業界に対して強い危機感を覚えた富野監督は、早くから「アニメばかり観ていたらバカになるぞ!」と警告し、自分の周り=つまりは世間を見ろ、虚構ではなくリアルを体験しろと訴えていた(一方で、フリーター問題なども合わせて旧態依然とした『否定観念』よりも、これからの時代は肯定する姿勢=多様性も重要だと訴えておられます)。だが、富野監督が願っていたような現実には残念ながらならなかった。同じ畑で生きる監督はその無念さを「新たな作品」で提示するしかないというジレンマを抱えながらも、現在も現場で先駆者としての責任と義務に悩まされながら若い世代を叱咤激励していることだろう。いまや億単位の利益を生む作品となったガンダムの権利そのものは、すでに30万円(当時)で売っている。監督は損得勘定で口を極めてはおらず、本気で若者達に「現実に目を向けなさい」と警告を発しているのだ。然し独特の感性を持つ監督なだけに、多くのファースト世代は監督の言わんとしている事を理解するのに苦労し、現在に至っても「結局何が言いたいのか分からん」と匙を投げるファンもいる。だがそれでも作品は観るのである。これは是非とは別に、矢張「富野文学」が彼らを惹き付けてやまない何かを持っているためだろう。

 そこでもう一つ挙げておきたいのが、前述した初代ガンダムと同一視してしまう性(さが)とは別の、「続篇というキーワードを見聞きするだけで“Ζ(ゼータ)を連想する性”」である。SDESTINyはSEEDという名のファーストガンダムの続きである――という様な前文で語り始める感想や人は多く、その言葉自体に間違いはないのだが、製作サイドが計算し尽くした「フェイク」が投入されていた事で、(言い方は悪くなるが)「あるがままを見ただけで本質を洞察出来ないオールドタイプなファースト世代」の大半が「誤解の連鎖」を起こしていたのである。その対象物は沢山あるが特に「シンとステラ」が顕著で、筆者にはむしろカミーユとロザミアの悲劇、そしてデストロイの扱いもドズルのビグ・ザム量産発言の暗喩にしか見えないのだが、ファースト世代と思しき大半が「カミーユとフォウ」で解釈する地獄絵図。30年間も飛ばされてきた「富野監督からの叱咤」の何を聞いていたのかと思う位に、あまりにも情けない「ガンダムファン」が其処にいた。それ以前に、もう一つのストライクとしてのインパルス、ザフト目線のファーストSEEDを暗示してのザクウォーリア、アーモリーワン事変から読める連合エネミースタートへの移行。これほどまでに「SEEDのメタファー」が提供されていたにも係らず、サングラスと偽名だからゼータ。すぐ怒る主人公だからゼータ。黒くて巨大で強化人間だからゼータ。金色のMSだからゼータでは、正しくデュランダルの「受け取る側もまた、自分なりに勝手に受け取るものだからね」という言葉が含む「愚かな偏見」の方、そのままではないか。
 「そんなものに振り回されてしまってはいけない。彼等は彼等――ザラ議長はザラ議長――そして君は君だ」
 これは物語的には本心ではなかったが、脚本家から「(前作を強く反映する)重複演出の意図に気付いてほしい苦言」でもあったのだろう。まるでこの状況を予見していたかの如き台詞を、しかもその当時クワトロ大尉だった御方に語らせていた演出に、今改めて気付くと鳥肌モノなのである。

 ‥‥長い前振りになってしまいましたが、以上の事をふまえて「シード世代」に目を向けてみると。彼または彼女たちは富野監督の手から離れた新世紀のガンダムをあっと言う間に受け入れ、インターネットの普及と同人サイトの乱立が根幹ともなって、爆発的に「シードコミュ」を生み出していった。黄色い声で楽しむライトファン層もいれば、シードをメインのネタにしてウェブページの活性化を図るキャプ職人層なども多かった。土曜日の放送終了後は正にお祭り状態といえ、独断的な感想が横行。極端なモノでは只管に批判(というか罵詈雑言)しておいて画像撮り込みは完璧という、好きなんだか嫌いなんだかよく分からないサイトもあった。これらは全て一過性のブームであった事が最近のネットを見ると良く分かる。つまり「感想の中身」が無いのだ。
 昨今、本作に限らず巷で多く見かけるようになった娯楽作品に対するコメント(質問)にこんなものがある。
 『アレってどういう意味だったんですか?』
 ‥‥皆さんがどう感じるかは分からないが、筆者はこれを見かけるたびに複雑な感情と何ともいえない脱力感を抱いてしまう。考えていないのだ。否、考えてはいるのだろうが、『自分の答えを自分で導き出せない』のかもしれない。中には先入観やケアレスミス、または比喩や諷刺と分からないで判断してしまう「困ったタイプ」もいる。然しハテナ状態というファンに至っては、何か時代性のようなものを感じずにはいられない。ファースト世代は辛口の批評もするが、なんだかんだで何十年もガンダムと共に歩んできた生粋のファンである事は真実であり、バッシングでもある程度は納得させられる意思があるのだが‥‥。たしかに説明が無ければ分からない「専門用語」だとか「独自の設定」だとか「どこそこに至る経緯」はある。然しこれが作品のテーマなどの『肝』であった場合は話は別だろう。
 前述してきた“シン・アスカの内面に隠された設定”でも指摘したのだが、これは理解できるかできないかで、「空想作品が創られる意味」すら消えてしまう危険をはらむ由由しき風潮ではないだろうか?分かりやすく翻訳すると‥‥一つの作品を書き終えた宮沢賢治が「これは傑作だ!」と確信したのに、読者の感想が「私には理解不能です」と一蹴されるようなもの。読み手側と発信者側に実力差が生まれてしまっているという訳だ。

 それを表すエピソードとして、本作とは無関係だが某対談萬画の中でこんなコメントがあったのを読んだ事がある。
 “不良とかグレるとか言っていた子はまだパワーがあったからよかったんですけど、今の受験生17〜18才のスポイルのされ方は相当ですね‥‥死ぬ気になれとか教師が言っちゃうと、ママ僕単語を覚えないと死ぬって言われた‥‥するとママが抗議の電話をかけてくる――って、こんなふうですから‥‥うっかりいえません。空っぽなんで言葉をそのまま受けとめちゃうから大変なんですよ。今の子は、○○さんの漫画も理解できるかどうか‥‥。”
 曲解に至ってしまうのは(それに陥りやすい描き方を意図的にしてある作品も世の中には多いので)ある意味では仕方がなく、そんな人達を責めても詮無い事だ。然し、本作においてはその曲解の多さが生半ではない為、筆者にはそうでない解釈に至った視聴者の声が「批判Majority」によって掻き消されてしまっていると思わずにはいられないのだ。
 だからだろうか――。あと何年か経った時、評価に劇的な変化が訪れるかもしれないと考えてしまうのは、「SEEDシリーズは戦争(紛争)や政治を描いていたようにみせかけて、実は遺伝子操作というパンドラの匣を開けた後の『人間の穢さ、醜さ』を徹底的に問い掛けて、差別と偏見による『モラルハザードこそを訴えた』ガンダム」と理解している同志なら“察して”くれているのかもしれない。

 【運命に委ねてみようと思った人人にも課せられた“答え”。火種の可能性は充分ある】

 一方、娯楽面としてのバトルアクションから見たSDESTINyの評価は‥‥筆者としては少し残念な評価を下したい。多くの視聴者が指摘するのと殆んど変わらないので短文で述べてしまうが、“キラ&連合目線からシン&ザフト目線へ”という狙いによって「SEEDをトレースしたSDESTINyの作画」を多用した事が挙げられる。ジン3機の進攻カットをウィンダムが、ストライク×イージスがしていた剣戟をインパルス×ジンハイマニューバ2型が、フリーダムの動きをセイバーが、プロヴィデンスのドラグーンをアカツキが――等等。加えて業界用語で「バンクフィルム」と呼ばれる動画手法も多用して描き続けた狙いとは、それが単なる「製作者側の負担軽減」だけでは決してなく、“わざと”そうする事によって「世界は自分が見ている姿だけじゃなく、相手(他人)にも同等にあるんだよ」というメッセージを伝えようともしていたからだろう。何故なら、先に動かしたリンゴと全く同じようにバナナを動かしたとしても、それはリンゴになった訳ではないし、リンゴに見える訳でもないのだから。然し、そのような暗喩も「度が過ぎれば飽きを助長する」という残念(想定外)な結果になってしまった事は隠しきれない。SEED第43話辺りからの畳み掛けるような展開が感じられなかった一つの“失策”であり、監督にとって近年最大の“苦い教訓”になってしまった事だろう。

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 私が本作の全力考察を開始した動機には、そういった事を含めて様様な場所で観てきた“詰り”に対する悲憤もあるが、大きかったのは「誤解による“真面目(本格的)な否定”」に対しての『氷解』を促したいと思った事である。何故なら、それらの内容はまるで同一人物が頒布しているんじゃないかと疑いたくなる位に似通っていたからだ。
 とはいえ、始めの内は自分の解釈が非常識な見当違いなのかと迷った事もあった。そんな折、後述する注釈でも書いたのだが、あるスタッフが“一度提示された作品は誤読や曲解も含めて視聴者の物であると思う”と仰っていたのを目にして、私はMinorityであろう“自分の存在”を畏れなくなった。それはまるで、劇中でジョージ・グレンが語った「真の意味での調整者(コーディネイター)」を目指せるような気がした転換点でもあったのである。

 “ガンダムシード”の肯定派と否定派。その両者が対立する構図は、正にナチュラルとコーディネイター、オールドタイプとニュータイプ、現実の民族・宗教・国家と同質ではあるまいか。
 その深すぎる溝を埋める方法は、討論も共感も大切だが、その後にたった一回のHandshakeが『偽りじゃなく出来たかどうか』なのかもしれない。

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(〆)

 *1 二作で綴る論議
 クルーゼ達が放った多くの「問い」に「答え」はしたものの、分かり合えはしなかったキラ達。だから「結局は悪として抹殺かよ」と言った視聴者はある意味で正しいが、残念ながら「作品の本質を洞察」出来ていたとはいえないだろう。何故なら此処には「対話は大事。然し言葉は決して万能ではない」とする「監督の抱える実感」も見え隠れしているからだ。SEEDシリーズでの人の革新は「どんなヒトとでも共感出来るニュータイプ」ではなく、「異る物を結ぶ架け橋――そして異る者の間に立つ者」。だがそれは、どっちつかずと罵られてしまいがちな何よりも難しい道(理想)なのではないか。
 その可能性の一つである“SEED(のファクター)を持つ者”に、アンチテーゼ(性格や道徳観等が正反対の人物同士を描写して意味を引き出す事)としてのキラ、或いはプラスのベクトルとしてのクルーゼであったシン・アスカが含まれていた事は、(実際には決して偽善者ではなかったのだが)「偽善者を忌み嫌う視聴者」が見過ごしてはいけない要素だろうと思い、製作者達の名誉の為に補足した。

 *2 遺伝子操作の限界
 前作でシーゲル・クライン議長に語らせていたテーマの一つに「出生率低下問題」があった事を憶えているだろうか。人体への遺伝子操作は過度的なまでに進んでおり、その弊害で子供が激減しているという設定だ。
 様様な能力を高めようと考え、DNAの螺旋を思うがままに組み換え続けた結果、受精において精子と卵子が遺伝子構造の激変を察知し、「ヒト(自身)とは異なる種」と認識して結びつかなくなるという生殖異常が判明したのである。強く万能すぎる個体にはなれても、その種族同士では繁栄が望めず結局は自滅してしまう――という深いテーマである。
 そこで注目しなければならないのが「婚姻統制」という政策と、キラやアスラン達が織り成す「恋愛模様」だ。婚姻統制はプラントで実施されており、社会のルールとなっている。理由は「受精率を高め子供を増やすため」だ。これを拒否した場合、自由恋愛のカップルでは「妊娠する確立がほぼゼロ」に近くなる。それほど深刻化しているのだ。
 以上を踏まえてアスランとラクスを追うと、二人は自由恋愛を選んだ。一方はカガリを、一方はキラを。然しカガリはナチュラルではあるが、アスランがコーディネイターである以上、「自然に」子供を授かれるかは微妙なのである(とはいえ、シーゲルはそれを推奨する事で回帰を目指すべきとの主義だったので、此方の場合は全く問題が無いのかもしれない)。但し、遺伝子情報で証明されているラクスとなら身体的な弊害はない。これは実に深く、重い裏テーマであろう。つまり、劇中では語られないがキラとラクスも同様に「受精相性という弊害で子供を授かれない」可能性もあるのだ。
 そうして登場するのがレイである。人工子宮器で誕生したクローンであるレイは、両親という「絶対者」がいない子供だ。かたやデュランダルが「勝ちとりたかった」もの。それはタリアとの未来、ひいては家族に他ならない。然し、どう足掻いても、どう後悔しても、自分には永遠に手にする事は出来ない。婚姻統制は誰が決めたのか。遺伝子操作は誰が決めたのか。子供を生む事が生命体の意義だと誰が決めたのか。
 運命の糸とは何だ?自由な世界で自由に結ばれる事が美徳としながらも、では何故運命の相手と言うと嬉嬉とするのか?それ以外では運命というレールを嫌悪するのに、何故それは受け入れるのか。それは自由とは違わないか。それこそ最初から定められた天啓――つまり運命によって成る世界の結果ではないのか。
 「ならば私が変える――全てを」。デスティニープランが『初めから定められていた事』だったならば、自分の様な思いをする者はいなかった筈なのだから‥‥。
 「私がまだやり残していた事。貴方が父親で、レイが息子。そういう事よね?」。メサイアのラストシーンが示しているのはタリアなりの贖罪であり、レイにとってのハッピーエンドでもあったのだ。

 *3 クローン人間の悲劇
 レイ・ザ・バレルの人物像を解き明かしていくと、本作の裏側で描かれている重厚な問題提議を垣間見る事が出来る。先ず、レイとラウは「アル・ダ・フラガ」という権力者が法を破って生み出した「自分のクローン」である。その一方で、実子にムウ・ラ・フラガがいたが、後継者として認めなかった。一度は選ばれたラウだったが、テロメア(寿命遺伝子)が短いという欠点によりラウも後継者から外されてしまう。その時に生み出されたのがラウの代わりとしてのレイだったのである。然しレイのテロメアは更に短く、クローンニングは万能ではない事の証明にもなった。アルの傲慢さと自身の「運命」を呪ったラウはアルを殺害する。こうしてラウは世界をも呪い、軍属となってあのような行動を取った。まだ幼いレイは若き日のデュランダルへ預けて。そこでレイは「自分の運命」なる価値観を「他人から教わる」事となる。かたや最高の遺伝子操作体として完全なキラ。二人は面識もないまま、人類の業を背負って対峙したのである。

 *4 視聴者の質の変化
 数年前、筆者は知人とこんな話をした事があった。
 「初めてラピュタに着いた時、パズーが『シータ、あの空!』と言って『ええ!』と答えるシーンの意味、分かった?」
 正解は「竜ノ巣だった雲が消えて無くなっている」。低気圧の結界が解けてしまいラピュタへの到達が容易になってしまった事を危惧している台詞なのである。然し筆者は、恥ずかしながら答えを聞くまで分からなかった。何となく気にはなる程度の認識だったのだ。その心は「視聴者側が気付けない限り、製作者側から説明される事はない表現」というものが、アニメやドラマに限らず巧妙に存在するという事実だ。
 手を離れた時点で作品は視聴者の物となる――。そういう意味ではシン・アスカという主人公は「元・主人公」「逆ギレ中坊」、SDESTINyという作品は「SEEDも汚した駄作」「劣化コピーの極み」などといった論評になるのも道理なのだろう。――道理なのだろうが、そこに至る前段階で、「いや、待てよ‥‥。いくらなんでもそこまで浅はかな考えで『ここまで似せた作風の“続篇”』を造るだろうか?きっと、まだ読みきれていない深い意図があるんじゃないだろうか?」。ここまで熟考を重ねる癖を持つ事も、一視聴者として必要な「義務」ではないのだろうかと、本作を見返す度に筆者は感じるのである。

監督:福田己津央
出演者:鈴村健一、 石田彰、 池田秀一、 小山茉美
収録時間:96分
レンタル開始日:2005-02-24

Story
迫力のバトルアクションで話題の「機動戦士ガンダム SEED」の続編第1弾。多大な犠牲を払って終戦を迎えた第ニ次ヤキン・ドゥーエ攻防戦。そんな中、戦争に巻き込まれ家族を失ったシン・アスカはザフトの戦士となっていた。第1話から第4話までを収録。 (詳細はこちら

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